高知県(こうちけん、英語表記:Kochi Prefecture)は、日本の県の一つで、四国の太平洋側に位置する。
令制国では土佐国にあたる。県庁所在地の高知市は土佐国の土佐郡に属していた。日本最後の清流といわれる四万十川(しまん
とがわ)のほか、水辺利用率全国一の仁淀川、物部川、安田川など四国山地に源を発する清流が多く流れる。また、室戸岬・足
摺岬・龍河洞・四国カルストなど多くの自然系観光資源を有する。近年は輸入野菜や徳島県や宮崎県などに押されがちであるが
、ピーマンやなすをはじめとする野菜類の促成栽培でも有名で、県中央部の沿岸部(土佐市〜芸西村付近)ではビニールハウス
が多く建てられている。
『古事記』の国産み神話に「土佐国は、健依別(たけよりわけ)と謂う」とあって、雄々しい国とされてきた。
平安時代には、土佐は日本国の辺境とされてきた。紀貫之の名著『土佐日記』は、女性に仮託された主人公の家族が国司として
の勤めを終え京に帰る旅立ちの場面から始まる。
土佐に土着した人は、中央から追われてきた人、逃れてきた人が住み着いた場合が多いと言われている。例えば戦国時代に四国
に覇を唱えた長宗我部は、飛鳥時代の蘇我氏の支流が長岡郡に定着したもの。長宗我部氏に滅ぼされた香宗我部氏は、同族(秦
氏との説もある)で香美郡に住み着いた人。同じく京都の公家である一条氏が応仁の乱を逃れて自分の荘園のあった中村に移り
住んだ(土佐一条氏)。
「陸の孤島」「遠流の国」と呼ばれ隠岐や佐渡などと並んで流刑地とされてきた地域である。これは同時に中央の政争の影響が
少ない地域でもあるため、中央の戦乱を避け逃れてきた人も移り住んだ。
戦国時代末期、土佐中央の長宗我部氏は、農民を戦力にするため一領具足の制度を作り、戦力を充実させて強大になった。一度
は滅ぼされたが復活し、安芸氏・本山氏・一条氏を討ち土佐を統一、さらに四国制覇を達成した。しかし4ヶ月で豊臣秀吉に敗れ
、土佐一国に戻された。
関ヶ原の戦いで西側についた長宗我部氏は領地を召し上げられ、代わりに掛川から移った山内一豊が土佐一国を支配した。その
際に『一領具足』は全て武士以下の『郷士』となった。
山内氏は江戸時代を通じて土佐一国を支配した。土佐では江戸時代初期に野中兼山、末期には吉田東洋などの名家老が出て藩政
を行った。幕末には下層階級の『郷士』から坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎らの志士が国許や京都で活躍し、討幕の流れを
作った。最初討幕に反対していた藩上層部も最終的には幕府を見限り、山内容堂の指示で後藤象二郎が『大政奉還』案を幕府に
提出した。その後 鳥羽伏見の戦い以後は『薩長土肥』の一員として明治維新の実現に貢献した。
高知藩、高知新田藩、重臣の五藤家の安芸城があった。
戦後の政治家吉田茂は高知県出身であったが、地元の鉄道敷設の陳情に対し、『私は日本の総理大臣であり、高知県の利益代表
ではない』趣旨の返事をしたと言われている。いわゆる土佐のいごっそうである。
高知県南西部の山間は大きく開発されることが無く、豊かな山林とダムの無い大きな川が残った。四万十川は最後の清流として
有名である。
1871年8月29日 廃藩置県により、土佐藩を廃止して高知県を設置
1876年8月21日 名東県が分割されると、阿波国部分が高知県に編入される。
1880年3月2日 阿波国部分が分離され、現在の高知県となる。
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